斜陽 太宰治 六-3

 がらがらと表の戸のあく音が聞えて、
「先生、持ってまいりました」
 という若い男の声がして、
「何せ、うちの社長ったら、がっちりしていますからね、二万円と言ってねばったのですが、やっと一万円」
「小切手か?」
 と上原さんのしゃがれた声。
「いいえ、現なまですが。すみません」
「まあ、いいや、受取りを書こう」
 ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、の乾杯の歌が、そのあいだも一座に於(お)いて絶える事無くつづいている。
「直(なお)さんは?」
 と、おかみさんは真面目(まじめ)な顔をしてチエちゃんに尋ねる。私は、どきりとした。
「知らないわ。直さんの番人じゃあるまいし」
 と、チエちゃんは、うろたえて、顔を可憐(かれん)に赤くなさった。
「この頃、何か上原さんと、まずい事でもあったんじゃないの? いつも、必ず、一緒だったのに」
 とおかみさんは、落ちついて言う。
「ダンスのほうが、すきになったんですって。ダンサアの恋人でも出来たんでしょうよ」
「直さんたら、まあ、お酒の上にまた女だから、始末が悪いね」
「先生のお仕込みですもの」
「でも、直さんのほうが、たちが悪いよ。あんなお坊(ぼっ)ちゃんくずれは、……」
「あの」
 私は微笑(ほほえ)んで口をはさんだ。黙っていては、かえってこのお二人に失礼なことになりそうだと思ったのだ。
「私、直治の姉なんですの」
 おかみさんは驚いたらしく、私の顔を見直したが、チエちゃんは平気で、
「お顔がよく似ていらっしゃいますもの。あの土間の暗いところにお立ちになっていたのを見て、私、はっと思ったわ。直さんかと」
「左様でございますか」
 とおかみさんは語調を改めて、
「こんなむさくるしいところへ、よくまあ。それで? あの、上原さんとは、前から?」
「ええ、六年前にお逢いして、……」
 言い澱(よど)み、うつむき、涙が出そうになった。
「お待ちどおさま」
 女中さんが、おうどんを持って来た。
「召し上れ。熱いうちに」
 とおかみさんはすすめる。
「いただきます」
 おうどんの湯気に顔をつっ込み、するするとおうどんを啜(すす)って、私は、いまこそ生きている事の侘(わ)びしさの、極限を味わっているような気がした。
 ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、と低く口ずさみながら、上原さんが私たちの部屋にはいって来て、私の傍にどかりとあぐらをかき、無言でおかみさんに大きい封筒を手渡した。
「これだけで、あとをごまかしちゃだめですよ」
 おかみさんは、封筒の中を見もせずに、それを長火鉢の引出しに仕舞い込んで笑いながら言う。
「持って来るよ。あとの支払いは、来年だ」
「あんな事を」
 一万円。それだけあれば、電球がいくつ買えるだろう。私だって、それだけあれば、一年らくに暮せるのだ。
 ああ、何かこの人たちは、間違っている。しかし、この人たちも、私の恋の場合と同じ様に、こうでもしなければ、生きて行かれないのかも知れない。人はこの世の中に生れて来た以上は、どうしても生き切らなければいけないものならば、この人たちのこの生き切るための姿も、憎むべきではないかも知れぬ。生きている事。生きている事。ああ、それは、何というやりきれない息もたえだえの大事業であろうか。
「とにかくね」
 と隣室の紳士がおっしゃる。
「これから東京で生活して行くにはだね、コンチワァ、という軽薄きわまる挨拶(あいさつ)が平気で出来るようでなければ、とても駄目(だめ)だね。いまのわれらに、重厚だの、誠実だの、そんな美徳を要求するのは、首くくりの足を引っぱるようなものだ。重厚? 誠実? ペッ、プッだ。生きて行けやしねえじゃないか。もしもだね、コンチワァを軽く言えなかったら、あとは、道が三つしか無いんだ、一つは帰農だ、一つは自殺、もう一つは女のヒモさ」
「その一つも出来やしねえ可哀想(かわいそう)な野郎には、せめて最後の唯一の手段」
 と別な紳士が、
「上原二郎にたかって、痛飲」
 ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ。
「泊るところが、ねえんだろ」
 と、上原さんは、低い声でひとりごとのようにおっしゃった。
「私?」
 私は自身に鎌首(かまくび)をもたげた蛇(へび)を意識した。敵意。それにちかい感情で、私は自分のからだを固くしたのである。
「ざこ寝が出来るか。寒いぜ」
 上原さんは、私の怒りに頓着(とんちゃく)なく呟(つぶや)く。
「無理でしょう」
 とおかみさんは、口をはさみ、
「お可哀そうよ」
 ちぇっ、と上原さんは舌打ちして、
「そんなら、こんなところへ来なけれあいいんだ」
 私は黙っていた。このひとは、たしかに、私のあの手紙を読んだ。そうして、誰よりも私を愛している、と、私はそのひとの言葉の雰囲気(ふんいき)から素早く察した。
「仕様がねえな。福井さんのとこへでも、たのんでみようかな。チエちゃん、連れて行ってくれないか。いや、女だけだと、途中が危険か。やっかいだな。かあさん、このひとのはきものを、こっそりお勝手のほうに廻(まわ)して置いてくれ。僕が送りとどけて来るから」
 外は深夜の気配だった。風はいくぶんおさまり、空にいっぱい星が光っていた。私たちは、ならんで歩きながら、
「私、ざこ寝でも何でも、出来ますのに」
 上原さんは、眠そうな声で、
「うん」
 とだけ言った。
「二人っきりに、なりたかったのでしょう。そうでしょう」
 私がそう言って笑ったら、上原さんは、
「これだから、いやさ」
 と口をまげて、にが笑いなさった。私は自分がとても可愛がられている事を、身にしみて意識した。
「ずいぶん、お酒を召し上りますのね。毎晩ですの?」
「そう、毎日。朝からだ」
「おいしいの? お酒が」
「まずいよ」
 そう言う上原さんの声に、私はなぜだか、ぞっとした。
「お仕事は?」
「駄目です。何を書いても、ばかばかしくって、そうして、ただもう、悲しくって仕様が無いんだ。いのちの黄昏(たそがれ)。芸術の黄昏。人類の黄昏。それも、キザだね」
ユトリロ
 私は、ほとんど無意識にそれを言った。
「ああ、ユトリロ。まだ生きていやがるらしいね。アルコールの亡者(もうじゃ)。死骸(しがい)だね。最近十年間のあいつの絵は、へんに俗っぽくて、みな駄目」
ユトリロだけじゃないんでしょう? 他(ほか)のマイスターたちも全部、……」
「そう、衰弱。しかし、新しい芽も、芽のままで衰弱しているのです。霜。フロスト。世界中に時ならぬ霜が降りたみたいなのです」
 上原さんは私の肩を軽く抱いて、私のからだは上原さんの二重廻しの袖(そで)で包まれたような形になったが、私は拒否せず、かえってぴったり寄りそってゆっくり歩いた。