斜陽 太宰治 六-2

 

 駅前の白石というおでんやは、すぐに見つかった。けれども、あのひとはいらっしゃらない。
「阿佐ヶ谷ですよ、きっと。阿佐ヶ谷駅の北口をまっすぐにいらして、そうですね、一丁半かな? 金物屋さんがありますからね、そこから右へはいって、半丁かな? 柳やという小料理屋がありますからね、先生、このごろは柳やのおステさんと大あつあつで、いりびたりだ、かなわねえ」
 駅へ行き、切符を買い、東京行きの省線に乗り、阿佐ヶ谷で降りて、北口、約一丁半、金物屋さんのところから右へ曲って半丁、柳やは、ひっそりしていた。
「たったいまお帰りになりましたが、大勢さんで、これから西荻(にしおぎ)のチドリのおばさんのところへ行って夜明しで飲むんだ、とかおっしゃっていましたよ」
 私よりも年が若くて、落ちついて、上品で、親切そうな、これがあの、おステさんとかいうあのひとと大あつあつの人なのかしら。
「チドリ? 西荻のどのへん?」
 心細くて、涙が出そうになった。自分がいま、気が狂っているのではないかしら、とふと思った。
「よく存じませんのですけどね、何でも西荻の駅を降りて、南口の、左にはいったところだとか、とにかく、交番でお聞きになったら、わかるんじゃないでしょうか。何せ、一軒ではおさまらないひとで、チドリに行く前にまたどこかにひっかかっているかも知れませんですよ」
「チドリへ行ってみます。さようなら」
 また、逆もどり。阿佐ヶ谷から省線で立川行きに乗り、荻窪西荻窪、駅の南口で降りて、こがらしに吹かれてうろつき、交番を見つけて、チドリの方角をたずねて、それから、教えられたとおりの夜道を走るようにして行って、チドリの青い燈籠(とうろう)を見つけて、ためらわず格子戸をあけた。
 土間があって、それからすぐ六畳間くらいの部屋があって、たばこの煙で濛々(もうもう)として、十人ばかりの人間が、部屋の大きな卓をかこんで、わあっわあっとひどく騒がしいお酒盛りをしていた。私より若いくらいのお嬢さんも三人まじって、たばこを吸い、お酒を飲んでいた。
 私は土間に立って、見渡し、見つけた。そうして、夢見るような気持ちになった。ちがうのだ。六年。まるっきり、もう、違ったひとになっているのだ。
 これが、あの、私の虹(にじ)、M・C、私の生き甲斐(がい)の、あのひとであろうか。六年。蓬髪(ほうはつ)は昔のままだけれども哀れに赤茶けて薄くなっており、顔は黄色くむくんで、眼のふちが赤くただれて、前歯が抜け落ち、絶えず口をもぐもぐさせて、一匹の老猿が背中を丸くして部屋の片隅(かたすみ)に坐っている感じであった。
 お嬢さんのひとりが私を見とがめ、目で上原さんに私の来ている事を知らせた。あのひとは坐ったまま細長い首をのばして私のほうを見て、何の表情も無く、顎(あご)であがれという合図をした。一座は、私に何の関心も無さそうに、わいわいの大騒ぎをつづけ、それでも少しずつ席を詰めて、上原さんのすぐ右隣りに私の席をつくってくれた。
 私は黙って坐った。上原さんは、私のコップにお酒をなみなみといっぱい注いでくれて、それからご自分のコップにもお酒を注ぎ足して、
「乾杯」
 としゃがれた声で低く言った。
 二つのコップが、力弱く触れ合って、カチと悲しい音がした。
 ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、と誰かが言って、それに応じてまたひとりが、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、と言い、カチンと音高くコップを打ち合せてぐいと飲む。ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、とあちこちから、その出鱈目(でたらめ)みたいな歌が起って、さかんにコップを打ち合せて乾杯をしている。そんなふざけ切ったリズムでもってはずみをつけて、無理にお酒を喉(のど)に流し込んでいる様子であった。
「じゃ、失敬」
 と言って、よろめきながら帰るひとがあるかと思うと、また、新客がのっそりはいって来て、上原さんにちょっと会釈しただけで、一座に割り込む。
「上原さん、あそこのね、上原さん、あそこのね、あああ、というところですがね、あれは、どんな工合(ぐあ)いに言ったらいいんですか? あ、あ、あ、ですか? ああ、あ、ですか?」
 と乗り出してたずねているひとは、たしかに私もその舞台顔に見覚えのある新劇俳優の藤田である。
「ああ、あ、だ。ああ、あ、チドリの酒は、安くねえ、といったような塩梅(あんばい)だね」
 と上原さん。
「お金の事ばっかり」
 とお嬢さん。
「二羽の雀(すずめ)は一銭、とは、ありゃ高いんですか? 安いんですか?」
 と若い紳士。
「一厘も残りなく償わずば、という言葉もあるし、或者(あるもの)には五タラント、或者には二タラント、或者には一タラントなんて、ひどくややこしい譬話(たとえばなし)もあるし、キリストも勘定はなかなかこまかいんだ」
 と別の紳士。
「それに、あいつあ酒飲みだったよ。妙にバイブルには酒の譬話が多いと思っていたら、果せるかなだ、視(み)よ、酒を好む人、と非難されたとバイブルに録(しる)されてある。酒を飲む人でなくて、酒を好む人というんだから、相当な飲み手だったに違いねえのさ。まず、一升飲みかね」
 ともうひとりの紳士。
「よせ、よせ。ああ、あ、汝(なんじ)らは道徳におびえて、イエスをダシに使わんとす。チエちゃん、飲もう。ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ」
 と上原さん、一ばん若くて美しいお嬢さんと、カチンと強くコップを打ち合せて、ぐっと飲んで、お酒が口角からしたたり落ちて、顎が濡(ぬ)れて、それをやけくそみたいに乱暴に掌で拭(ぬぐ)って、それから大きいくしゃみを五つも六つも続けてなさった。
 私はそっと立って、お隣りの部屋へ行き、病身らしく蒼白(あおじろ)く痩(や)せたおかみさんに、お手洗いをたずね、また帰りにその部屋をとおると、さっきの一ばんきれいで若いチエちゃんとかいうお嬢さんが、私を待っていたような恰好(かっこう)で立っていて、
「おなかが、おすきになりません?」
 と親しそうに笑いながら、尋ねた。
「ええ、でも、私、パンを持ってまいりましたから」
「何もございませんけど」
 と病身らしいおかみさんは、だるそうに横坐りに坐って長火鉢に寄りかかったままで言う。
「この部屋で、お食事をなさいまし。あんな呑(の)んべえさんたちの相手をしていたら、一晩中なにも食べられやしません。お坐りなさい、ここへ。チエ子さんも一緒に」
「おうい、キヌちゃん、お酒が無い」
 とお隣りで紳士が叫ぶ。
「はい、はい」
 と返辞して、そのキヌちゃんという三十歳前後の粋(いき)な縞(しま)の着物を着た女中さんが、お銚子(ちょうし)をお盆に十本ばかり載せて、お勝手からあらわれる。
「ちょっと」
 とおかみさんは呼びとめて、
「ここへも二本」
 と笑いながら言い、
「それからね、キヌちゃん、すまないけど、裏のスズヤさんへ行って、うどんを二つ大いそぎでね」
 私とチエちゃんは長火鉢の傍(そば)にならんで坐って、手をあぶっていた。
「お蒲団(ふとん)をおあてなさい。寒くなりましたね。お飲みになりませんか」
 おかみさんは、ご自分のお茶のお茶碗(ちゃわん)にお銚子のお酒をついで、それから別の二つのお茶碗にもお酒を注いだ。
 そうして私たち三人は黙って飲んだ。
「みなさん、お強いのね」
 とおかみさんは、なぜだか、しんみりした口調で言った。