斜陽 太宰治 五-3

 私たちは、しばらく黙って、冬の川を見下(みおろ)していた。
「ご無事で。もし、これが永遠の別れなら、永遠に、ご無事で。バイロン
 と言い、それから、そのバイロンの詩句を原文で口早に誦(しょう)して、私のからだを軽く抱いた。
 私は恥ずかしく、
「ごめんなさいね」
 と小声でわびて、お茶の水駅のほうに歩いて、振り向いてみると、そのお友達は、やはり橋の上に立ったまま、動かないで、じっと私を見つめていた。
 それっきり、そのお友達と逢わない。同じ外人教師の家へかよっていたのだけれども、学校がちがっていたのである。
 あれから十二年たったけれども、私はやっぱり更級日記から一歩も進んでいなかった。いったいまあ、私はそのあいだ、何をしていたのだろう。革命を、あこがれた事も無かったし、恋さえ、知らなかった。いままで世間のおとなたちは、この革命と恋の二つを、最も愚かしく、いまわしいものとして私たちに教え、戦争の前も、戦争中も、私たちはそのとおりに思い込んでいたのだが、敗戦後、私たちは世間のおとなを信頼しなくなって、何でもあのひとたちの言う事の反対のほうに本当の生きる道があるような気がして来て、革命も恋も、実はこの世で最もよくて、おいしい事で、あまりいい事だから、おとなのひとたちは意地わるく私たちに青い葡萄(ぶどう)だと嘘(うそ)ついて教えていたのに違いないと思うようになったのだ。私は確信したい。人間は恋と革命のために生れて来たのだ。
 すっと襖(ふすま)があいて、お母さまが笑いながら顔をお出しになって、
「まだ起きていらっしゃる。眠くないの?」
 とおっしゃった。
 机の上の時計を見たら、十二時だった。
「ええ、ちっとも眠くないの。社会主義のご本を読んでいたら、興奮しちゃいましたわ」
「そう。お酒ないの? そんな時には、お酒を飲んでやすむと、よく眠れるんですけどね」
 とからかうような口調でおっしゃったが、その態度には、どこやらデカダン紙一重のなまめかしさがあった。

 やがて十月になったが、からりとした秋晴れの空にはならず、梅雨時(つゆどき)のような、じめじめして蒸し暑い日が続いた。そうして、お母さまのお熱は、やはり毎日夕方になると、三十八度と九度のあいだを上下した。
 そうして或る朝、おそろしいものを私は見た。お母さまのお手が、むくんでいるのだ。朝ごはんが一ばんおいしいと言っていらしたお母さまも、このごろは、お床に坐って、ほんの少し、おかゆを軽く一碗(わん)、おかずも匂(にお)いの強いものは駄目(だめ)で、その日は、松茸(まつたけ)のお清汁(すまし)をさし上げたのに、やっぱり、松茸の香さえおいやになっていらっしゃる様子で、お椀(わん)をお口元まで持って行って、それきりまたそっとお膳(ぜん)の上におかえしになって、その時、私は、お母さまの手を見て、びっくりした。右の手がふくらんで、まあるくなっていたのだ。
「お母さま! 手、なんともないの?」
 お顔さえ少し蒼(あお)く、むくんでいるように見えた。
「なんでもないの。これくらい、なんでもないの」
「いつから、腫(は)れたの?」
 お母さまは、まぶしそうなお顔をなさって、黙っていらした。私は、声を挙げて泣きたくなった。こんな手は、お母さまの手じゃない。よそのおばさんの手だ。私のお母さまのお手は、もっとほそくて小さいお手だ。私のよく知っている手。優しい手。可愛い手。あの手は、永遠に、消えてしまったのだろうか。左の手は、まだそんなに腫れていなかったけれども、とにかく傷(いた)ましく、見ている事が出来なくて、私は眼をそらし、床の間の花籠(はなかご)をにらんでいた。
 涙が出そうで、たまらなくなって、つと立って食堂へ行ったら、直治がひとりで、半熟卵をたべていた。たまに伊豆のこの家にいる事があっても、夜はきまってお咲さんのところへ行って焼酎(しょうちゅう)を飲み、朝は不機嫌な顔で、ごはんは食べずに半熟の卵を四つか五つ食べるだけで、それからまた二階へ行って、寝たり起きたりなのである。
「お母さまの手が腫れて」
 と直治に話しかけ、うつむいた。言葉をつづける事が出来ず、私は、うつむいたまま、肩で泣いた。
 直治は黙っていた。
 私は顔を挙げて、
「もう、だめなの。あなた、気が附(つ)かなかった? あんなに腫れたら、もう、駄目なの」
 と、テーブルの端を掴(つか)んで言った。
 直治も、暗い顔になって、
「近いぞ、そりゃ。ちぇっ、つまらねえ事になりやがった」
「私、もう一度、なおしたいの。どうかして、なおしたいの」
 と右手で左手をしぼりながら言ったら、突然、直治が、めそめそと泣き出して、
「なんにも、いい事が無(ね)えじゃねえか。僕たちには、なんにもいい事が無えじゃねえか」
 と言いながら、滅茶苦茶(めちゃくちゃ)にこぶしで眼をこすった。
 その日、直治は、和田の叔父さまにお母さまの容態を報告し、今後の事の指図(さしず)を受けに上京し、私はお母さまのお傍(そば)にいない間、朝から晩まで、ほとんど泣いていた。朝霧の中を牛乳をとりに行く時も、鏡に向って髪を撫(な)でつけながらも、口紅を塗りながらも、いつも私は泣いていた。お母さまと過した仕合せの日の、あの事この事が、絵のように浮んで来て、いくらでも泣けて仕様が無かった。夕方、暗くなってから、支那間のヴェランダへ出て、永いことすすり泣いた。秋の空に星が光っていて、足許(あしもと)に、よその猫(ねこ)がうずくまって、動かなかった。
 翌日、手の腫れは、昨日よりも、また一そうひどくなっていた。お食事は、何も召し上らなかった。お蜜柑(みかん)のジュースも、口が荒れて、しみて、飲めないとおっしゃった。
「お母さま、また、直治のあのマスクを、なさったら?」
 と笑いながら言うつもりであったが、言っているうちに、つらくなって、わっと声を挙げて泣いてしまった。
「毎日いそがしくて、疲れるでしょう。看護婦さんを、やとって頂戴(ちょうだい)」
 と静かにおっしゃったが、ご自分のおからだよりも、かず子の身を心配していらっしゃる事がよくわかって、なおの事かなしく、立って、走って、お風呂場の三畳に行って、思いのたけ泣いた。
 お昼すこし過ぎ、直治が三宅さまの老先生と、それから看護婦さん二人を、お連れして来た。
 いつも冗談ばかりおっしゃる老先生も、その時は、お怒りになっていらっしゃるような素振りで、どしどし病室へはいって来られて、すぐにご診察を、おはじめになった。そうして、誰に言うともなく、
「お弱りになりましたね」
 と一こと低くおっしゃって、カンフルを注射して下さった。
「先生のお宿は?」
 とお母さまは、うわ言のようにおっしゃる。
「また長岡です。予約してありますから、ご心配無用。このご病人は、ひとの事など心配なさらず、もっとわがままに、召し上りたいものは何でも、たくさん召し上るようにしなければいけませんね。栄養をとったら、よくなります。明日また、まいります。看護婦をひとり置いて行きますから、使ってみて下さい」
 と老先生は、病床のお母さまに向って大きな声で言い、それから直治に眼くばせして立ち上った。
 直治ひとり、先生とお供の看護婦さんを送って行って、やがて帰って来た直治の顔を見ると、それは泣きたいのを怺(こら)えている顔だった。
 私たちは、そっと病室から出て、食堂へ行った。
「だめなの? そうでしょう?」
「つまらねえ」
 と直治は口をゆがめて笑って、
「衰弱が、ばかに急激にやって来たらしいんだ。今(こん)、明日(みょうにち)も、わからねえと言っていやがった」
 と言っているうちに直治の眼から涙があふれて出た。
「ほうぼうへ、電報を打たなくてもいいかしら」
 私はかえって、しんと落ちついて言った。
「それは、叔父さんにも相談したが、叔父さんは、いまはそんな人集めの出来る時代では無いと言っていた。来ていただいても、こんな狭い家では、かえって失礼だし、この近くには、ろくな宿もないし、長岡の温泉にだって、二部屋も三部屋も予約は出来ない、つまり、僕たちはもう貧乏で、そんなお偉(え)らがたを呼び寄せる力が無えってわけなんだ。叔父さんは、すぐあとで来る筈だが、でも、あいつは、昔からケチで、頼みにも何もなりゃしねえ。ゆうべだってもう、ママの病気はそっちのけで、僕にさんざんのお説教だ。ケチなやつからお説教されて、眼がさめたなんて者は、古今東西にわたって一人もあった例(ためし)が無えんだ。姉と弟でも、ママとあいつとではまるで、雲泥(うんでい)のちがいなんだからなあ、いやになるよ」
「でも、私はとにかく、あなたは、これから叔父さまにたよらなければ、……」
「まっぴらだ。いっそ乞食(こじき)になったほうがいい。姉さんこそ、これから、叔父さんによろしくおすがり申し上げるさ」
「私には、……」
 涙が出た。
「私には、行くところがあるの」
「縁談? きまってるの?」
「いいえ」
「自活か? はたらく婦人。よせ、よせ」
「自活でもないの。私ね、革命家になるの」
「へえ?」
 直治は、へんな顔をして私を見た。
 その時、三宅先生の連れていらした附添いの看護婦さんが、私を呼びに来た。
「奥さまが、何かご用のようでございます」
 いそいで病室に行って、お蒲団(ふとん)の傍に坐り、
「何?」
 と顔を寄せてたずねた。
 けれども、お母さまは、何か言いたげにして、黙っていらっしゃる。
「お水?」
 とたずねた。
 幽(かす)かに首を振る。お水でも無いらしかった。
 しばらくして、小さいお声で、
「夢を見たの」
 とおっしゃった。
「そう? どんな夢?」
「蛇(へび)の夢」
 私は、ぎょっとした。