斜陽 太宰治 二-3

「御奉公って、女中の事?」
「いいえ、叔父さまがね、ほら、あの、駒場こまばの」
 と或る宮様のお名前を挙げて、
「あの宮様なら、私たちとも血縁つづきだし、姫宮の家庭教師をかねて、御奉公にあがっても、かず子が、そんなにさびしく窮屈な思いをせずにすむだろう、とおっしゃっているのです」
「他に、つとめ口が無いものかしら」
「他の職業は、かず子には、とても無理だろう、とおっしゃっていました」
「なぜ無理なの? ね、なぜ無理なの?」
 お母さまは、淋しそうに微笑ほほえんでいらっしゃるだけで、何ともお答えにならなかった。
「いやだわ! 私、そんな話」
 自分でも、あらぬ事を口走った、と思った。が、とまらなかった。
「私が、こんな地下足袋を、こんな地下足袋を」
 と言ったら、涙が出て来て、思わずわっと泣き出した。顔を挙げて、涙を手の甲で払いのけながら、お母さまに向って、いけない、いけない、と思いながら、言葉が無意識みたいに、肉体とまるで無関係に、つぎつぎと続いて出た。
「いつだか、おっしゃったじゃないの。かず子がいるから、かず子がいてくれるから、お母さまは伊豆へ行くのですよ、とおっしゃったじゃないの。かず子がいないと、死んでしまうとおっしゃったじゃないの。だから、それだから、かず子は、どこへも行かずに、お母さまのおそばにいて、こうして地下足袋をはいて、お母さまにおいしいお野菜をあげたいと、そればっかり考えているのに、直治が帰って来るとお聞きになったら、急に私を邪魔にして、宮様の女中に行けなんて、あんまりだわ、あんまりだわ」
 自分でも、ひどい事を口走ると思いながら、言葉が別の生き物のように、どうしてもとまらないのだ。
「貧乏になって、お金が無くなったら、私たちの着物を売ったらいいじゃないの。このお家も、売ってしまったら、いいじゃないの。私には、何だって出来るわよ。この村の役場の女事務員にだって何にだってなれるわよ。役場で使って下さらなかったら、ヨイトマケにだってなれるわよ。貧乏なんて、なんでもない。お母さまさえ、私を可愛かわいがって下さったら、私は一生お母さまのお傍にいようとばかり考えていたのに、お母さまは、私よりも直治のほうが可愛いのね。出て行くわ。私は出て行く。どうせ私は、直治とは昔から性格が合わないのだから、三人一緒に暮していたら、お互いに不幸よ。私はこれまで永いことお母さまと二人きりで暮したのだから、もう思い残すことは無い。これから直治がお母さまとお二人で水いらずで暮して、そうして直治がたんとたんと親孝行をするといい。私はもう、いやになった。これまでの生活が、いやになった。出て行きます。きょうこれから、すぐに出て行きます。私には、行くところがあるの」
 私は立った。
「かず子!」
 お母さまはきびしく言い、そうしてかつて私に見せた事の無かったほど、威厳に満ちたお顔つきで、すっとお立ちになり、私と向い合って、そうして私よりも少しお背が高いくらいに見えた。
 私は、ごめんなさい、とすぐに言いたいと思ったが、それが口にどうしても出ないで、かえって別の言葉が出てしまった。
「だましたのよ。お母さまは、私をおだましになったのよ。直治が来るまで、私を利用していらっしゃったのよ。私は、お母さまの女中さん。用がすんだから、こんどは宮様のところに行けって」
 わっと声が出て、私は立ったまま、思いきり泣いた。
「お前は、馬鹿ばかだねえ」
 と低くおっしゃったお母さまのお声は、怒りに震えていた。
 私は顔を挙げ、
「そうよ、馬鹿よ。馬鹿だから、だまされるのよ。馬鹿だから、邪魔にされるのよ。いないほうがいいのでしょう? 貧乏って、どんな事? お金って、なんの事? 私には、わからないわ。愛情を、お母さまの愛情を、それだけを私は信じて生きて来たのです」
 とまた、ばかな、あらぬ事を口走った。
 お母さまは、ふっとお顔をそむけた。泣いておられるのだ。私は、ごめんなさい、と言い、お母さまに抱きつきたいと思ったが、畑仕事で手がよごれているのが、かすかに気になり、へんに白々しくなって、
「私さえ、いなかったらいいのでしょう? 出て行きます。私には、行くところがあるの」
 と言い捨て、そのまま小走りに走って、お風呂場に行き、泣きじゃくりながら、顔と手足を洗い、それからお部屋へ行って、洋服に着換えているうちに、またわっと大きい声が出て泣き崩れ、思いのたけもっともっと泣いてみたくなって二階の洋間にけ上り、ベッドにからだを投げて、毛布を頭からかぶり、せるほどひどく泣いて、そのうちに気が遠くなるみたいになって、だんだん、或るひとが恋いしくて、恋いしくて、お顔を見て、お声を聞きたくてたまらなくなり、両足の裏に熱いおきゅうを据え、じっとこらえているような、特殊な気持になって行った。
 夕方ちかく、お母さまは、しずかに二階の洋間にはいっていらして、パチと電燈にをいれて、それから、ベッドのほうに近寄って来られ、
「かず子」
 と、とてもお優しくお呼びになった。
「はい」
 私は起きて、ベッドの上にすわり、両手で髪をきあげ、お母さまのお顔を見て、ふふと笑った。
 お母さまも、かすかにお笑いになり、それから、お窓の下のソファに、深くからだを沈め、
「私は、生れてはじめて、和田の叔父さまのお言いつけに、そむいた。……お母さまはね、いま、叔父さまに御返事のお手紙を書いたの。私の子供たちの事は、私におまかせ下さい、と書いたの。かず子、着物を売りましょうよ。二人の着物をどんどん売って、思い切りむだ使いして、ぜいたくな暮しをしましょうよ。私はもう、あなたに、畑仕事などさせたくない。高いお野菜を買ったって、いいじゃないの。あんなに毎日の畑仕事は、あなたには無理です」
 実は私も、毎日の畑仕事が、少しつらくなりかけていたのだ。さっきあんなに、狂ったみたいに泣き騒いだのも、畑仕事の疲れと、悲しみがごっちゃになって、何もかも、うらめしく、いやになったからなのだ。
 私はベッドの上で、うつむいて、黙っていた。
「かず子」
「はい」
「行くところがある、というのは、どこ?」
 私は自分が、首すじまで赤くなったのを意識した。
細田さま?」
 私は黙っていた。
 お母さまは、深い溜息ためいきをおつきになり、
「昔の事を言ってもいい?」
「どうぞ」
 と私は小声で言った。
「あなたが、山木さまのお家から出て、西片町のお家へ帰って来た時、お母さまは何もあなたをとがめるような事は言わなかったつもりだけど、でも、たった一ことだけ、(お母さまはあなたに裏切られました)って言ったわね。おぼえている? そしたら、あなたは泣き出しちゃって、……私も裏切ったなんてひどい言葉を使ってわるかったと思ったけど、……」
 けれども、私はあの時、お母さまにそう言われて、何だか有難くて、うれし泣きに泣いたのだ。
「お母さまがね、あの時、裏切られたって言ったのは、あなたが山木さまのお家を出て来た事じゃなかったの。山木さまから、かず子は実は、細田と恋仲だったのです、と言われた時なの。そう言われた時には、本当に、私は顔色が変る思いでした。だって、細田さまには、あのずっと前から、奥さまもお子さまもあって、どんなにこちらがお慕いしたって、どうにもならぬ事だし、……」
「恋仲だなんて、ひどい事を。山木さまのほうで、ただそう邪推なさっていただけなのよ」
「そうかしら。あなたは、まさか、あの細田さまを、まだ思いつづけているのじゃないでしょうね。行くところって、どこ?」
細田さまのところなんかじゃないわ」
「そう? そんなら、どこ?」
「お母さま、私ね、こないだ考えた事だけれども、人間が他の動物と、まるっきり違っている点は、何だろう、言葉も智慧ちえも、思考も、社会の秩序も、それぞれ程度の差はあっても、他の動物だって皆持っているでしょう? 信仰も持っているかも知れないわ。人間は、万物の霊長だなんて威張っているけど、ちっとも他の動物と本質的なちがいが無いみたいでしょう? ところがね、お母さま、たった一つあったの。おわかりにならないでしょう。他の生き物には絶対に無くて、人間にだけあるもの。それはね、ひめごと、というものよ。いかが?」
 お母さまは、ほんのりお顔を赤くなさって、美しくお笑いになり、
「ああ、そのかず子のひめごとが、よいを結んでくれたらいいけどねえ。お母さまは、毎朝、お父さまにかず子を幸福にして下さるようにお祈りしているのですよ」
 私の胸にふうっと、お父上と那須なすのをドライヴして、そうして途中で降りて、その時の秋の野のけしきが浮んで来た。はぎ、なでしこ、りんどう、女郎花おみなえしなどの秋の草花が咲いていた。野葡萄のぶどうの実は、まだ青かった。
 それから、お父上と琵琶湖びわでモーターボートに乗り、私が水に飛び込み、む小魚が私の脚にあたり、湖の底に、私の脚の影がくっきりと写っていて、そうしてうごいている、そのさまが前後と何の聯関れんかんも無く、ふっと胸に浮んで、消えた。
 私はベッドから滑り降りて、お母さまのお膝に抱きつき、はじめて、
「お母さま、さっきはごめんなさい」
 と言う事が出来た。
 思うと、その日あたりが、私たちの幸福の最後の残り火の光が輝いた頃で、それから、直治が南方から帰って来て、私たちの本当の地獄がはじまった。