斜陽 太宰治 一-2

 蛇(へび)の話をしようかしら。その四、五日前の午後に、近所の子供たちが、お庭の垣(かき)の竹藪(たけやぶ)から、蛇の卵を十ばかり見つけて来たのである。
 子供たちは、
「蝮(まむし)の卵だ」
 と言い張った。私はあの竹藪に蝮が十匹も生れては、うっかりお庭にも降りられないと思ったので、
「焼いちゃおう」
 と言うと、子供たちはおどり上がって喜び、私のあとからついて来る。
 竹藪の近くに、木の葉や柴(しば)を積み上げて、それを燃やし、その火の中に卵を一つずつ投げ入れた。卵は、なかなか燃えなかった。子供たちが、更に木の葉や小枝を焔(ほのお)の上にかぶせて火勢を強くしても、卵は燃えそうもなかった。
 下の農家の娘さんが、垣根の外から、
「何をしていらっしゃるのですか?」
 と笑いながらたずねた。
「蝮の卵を燃やしているのです。蝮が出ると、こわいんですもの」
「大きさは、どれくらいですか?」
うずらの卵くらいで、真白なんです」
「それじゃ、ただの蛇の卵ですわ。蝮の卵じゃないでしょう。生(なま)の卵は、なかなか燃えませんよ」
 娘さんは、さも可笑(おか)しそうに笑って、去った。
 三十分ばかり火を燃やしていたのだけれども、どうしても卵は燃えないので、子供たちに卵を火の中から拾わせて、梅の木の下に埋めさせ、私は小石を集めて墓標を作ってやった。
「さあ、みんな、拝むのよ」
 私がしゃがんで合掌すると、子供たちもおとなしく私のうしろにしゃがんで合掌したようであった。そうして子供たちとわかれて、私ひとり石段をゆっくりのぼって来ると、石段の上の、藤棚(ふじだな)の蔭(かげ)にお母さまが立っていらして、
「可哀(かわい)そうな事をするひとね」
 とおっしゃった。
「蝮かと思ったら、ただの蛇だったの。けれど、ちゃんと埋葬してやったから、大丈夫」
 とは言ったものの、こりゃお母さまに見られて、まずかったかなと思った。
 お母さまは決して迷信家ではないけれども、十年前、お父上が西片町のお家で亡くなられてから、蛇をとても恐れていらっしゃる。お父上の御臨終の直前に、お母さまが、お父上の枕元(まくらもと)に細い黒い紐(ひも)が落ちているのを見て、何気なく拾おうとなさったら、それが蛇だった。するすると逃げて、廊下に出てそれからどこへ行ったかわからなくなったが、それを見たのは、お母さまと、和田の叔父さまとお二人きりで、お二人は顔を見合せ、けれども御臨終のお座敷の騒ぎにならぬよう、こらえて黙っていらしたという。私たちも、その場に居合せていたのだが、その蛇の事は、だから、ちっとも知らなかった。
 けれども、そのお父上の亡くなられた日の夕方、お庭の池のはたの、木という木に蛇がのぼっていた事は、私も実際に見て知っている。私は二十九のばあちゃんだから、十年前のお父上の御逝去(ごせいきょ)の時は、もう十九にもなっていたのだ。もう子供では無かったのだから、十年経(た)っても、その時の記憶はいまでもはっきりしていて、間違いは無い筈(はず)だが、私がお供えの花を剪(き)りに、お庭のお池のほうに歩いて行って、池の岸のつつじのところに立ちどまって、ふと見ると、そのつつじの枝先に、小さい蛇がまきついていた。すこしおどろいて、つぎの山吹の花枝を折ろうとすると、その枝にも、まきついていた。隣りの木犀(もくせい)にも、若楓(わかかえで)にも、えにしだにも、藤にも、桜にも、どの木にも、どの木にも、蛇がまきついていたのである。けれども私には、そんなにこわく思われなかった。蛇も、私と同様にお父上の逝去を悲しんで、穴から這(は)い出てお父上の霊を拝んでいるのであろうというような気がしただけであった。そうして私は、そのお庭の蛇の事を、お母さまにそっとお知らせしたら、お母さまは落ちついて、ちょっと首を傾けて何か考えるような御様子をなさったが、べつに何もおっしゃりはしなかった。
 けれども、この二つの蛇の事件が、それ以来お母さまを、ひどい蛇ぎらいにさせたのは事実であった。蛇ぎらいというよりは、蛇をあがめ、おそれる、つまり畏怖(いふ)の情をお持ちになってしまったようだ。
 蛇の卵を焼いたのを、お母さまに見つけられ、お母さまはきっと何かひどく不吉なものをお感じになったに違いないと思ったら、私も急に蛇の卵を焼いたのがたいへんなおそろしい事だったような気がして来て、この事がお母さまに或いは悪い祟(たた)りをするのではあるまいかと、心配で心配で、あくる日も、またそのあくる日も忘れる事が出来ずにいたのに、けさは食堂で、美しい人は早く死ぬ、などめっそうも無い事をつい口走って、あとで、どうにも言いつくろいが出来ず、泣いてしまったのだが、朝食のあと片づけをしながら、何だか自分の胸の奥に、お母さまのお命をちぢめる気味わるい小蛇が一匹はいり込んでいるようで、いやでいやで仕様が無かった。
 そうして、その日、私はお庭で蛇を見た。その日は、とてもなごやかないいお天気だったので、私はお台所のお仕事をすませて、それからお庭の芝生の上に籐椅子(とういす)をはこび、そこで編物を仕様と思って、籐椅子を持ってお庭に降りたら、庭石の笹(ささ)のところに蛇がいた。おお、いやだ。私はただそう思っただけで、それ以上深く考える事もせず、籐椅子を持って引返して縁側にあがり、縁側に椅子を置いてそれに腰かけて編物にとりかかった。午後になって、私はお庭の隅の御堂の奥にしまってある蔵書の中から、ローランサンの画集を取り出して来ようと思って、お庭へ降りたら、芝生の上を、蛇が、ゆっくりゆっくり這っている。朝の蛇と同じだった。ほっそりした、上品な蛇だった。私は、女蛇だ、と思った。彼女は、芝生を静かに横切って野ばらの蔭まで行くと、立ちどまって首を上げ、細い焔のような舌をふるわせた。そうして、あたりを眺(なが)めるような恰好(かっこう)をしたが、しばらくすると、首を垂れ、いかにも物憂(ものう)げにうずくまった。私はその時にも、ただ美しい蛇だ、という思いばかりが強く、やがて御堂に行って画集を持ち出し、かえりにさっきの蛇のいたところをそっと見たが、もういなかった。
 夕方ちかく、お母さまと支那間でお茶をいただきながら、お庭のほうを見ていたら、石段の三段目の石のところに、けさの蛇がまたゆっくりとあらわれた。
 お母さまもそれを見つけ、
「あの蛇は?」
 とおっしゃるなり立ち上って私のほうに走り寄り、私の手をとったまま立ちすくんでおしまいになった。そう言われて、私も、はっと思い当り、
「卵の母親?」
 と口に出して言ってしまった。
「そう、そうよ」
 お母さまのお声は、かすれていた。
 私たちは手をとり合って、息をつめ、黙ってその蛇を見護(みまも)った。石の上に、物憂げにうずくまっていた蛇は、よろめくようにまた動きはじめ、そうして力弱そうに石段を横切り、かきつばたのほうに這入(はい)って行った。
「けさから、お庭を歩きまわっていたのよ」
 と私が小声で申し上げたら、お母さまは、溜息(ためいき)をついてくたりと椅子に坐(すわ)り込んでおしまいになって、
「そうでしょう? 卵を捜しているのですよ。可哀そうに」
 と沈んだ声でおっしゃった。
 私は仕方なく、ふふと笑った。
 夕日がお母さまのお顔に当って、お母さまのお眼が青いくらいに光って見えて、その幽かに怒りを帯びたようなお顔は、飛びつきたいほどに美しかった。そうして、私は、ああ、お母さまのお顔は、さっきのあの悲しい蛇に、どこか似ていらっしゃる、と思った。そうして私の胸の中に住む蝮みたいにごろごろして醜い蛇が、この悲しみが深くて美しい美しい母蛇をいつか、食い殺してしまうのではなかろうかと、なぜだか、なぜだか、そんな気がした。
 私はお母さまの軟らかなきゃしゃなお肩に手を置いて、理由のわからない身悶(みもだ)えをした。

 私たちが、東京の西片町のお家を捨て、伊豆(いず)のこの、ちょっと支那ふうの山荘に引越して来たのは、日本が無条件降伏をしたとしの、十二月のはじめであった。お父上がお亡くなりになってから、私たちの家の経済は、お母さまの弟で、そうしていまではお母さまのたった一人の肉親でいらっしゃる和田の叔父さまが、全部お世話して下さっていたのだが、戦争が終わって世の中が変り、和田の叔父さまが、もう駄目(だめ)だ、家を売るより他(ほか)は無い、女中にも皆ひまを出して、親子二人で、どこか田舎の小綺麗な家を買い、気ままに暮したほうがいい、とお母さまにお言い渡しになった様子で、お母さまは、お金の事は子供よりも、もっと何もわからないお方だし、和田の叔父さまからそう言われて、それではどうかよろしく、とお願いしてしまったようである。
 十一月の末に叔父さまから速達が来て、駿豆(すんず)鉄道の沿線に河田子爵(ししゃく)の別荘が売り物に出ている、家は高台で見晴しがよく、畑も百坪ばかりある、あのあたりは梅の名所で、冬暖かく夏涼しく、住めばきっと、お気に召すところと思う、先方と直接お逢いになってお話をする必要もあると思われるから、明日、とにかく銀座の私の事務所までおいでを乞(こ)う、という文面で、
「お母さま、おいでなさる?」
 と私がたずねると、
「だって、お願いしていたのだもの」
 と、とてもたまらなく淋しそうに笑っておっしゃった。
 翌(あく)る日、もとの運転手の松山さんにお伴(とも)をたのんで、お母さまは、お昼すこし過ぎにおでかけになり、夜の八時頃、松山さんに送られてお帰りになった。
「きめましたよ」
 かず子のお部屋へはいって来て、かず子の机に手をついてそのまま崩れるようにお坐りになり、そう一言(ひとこと)おっしゃった。
「きめたって、何を?」
「全部」
「だって」
 と私はおどろき、
「どんなお家だか、見もしないうちに、……」
 お母さまは机の上に片肘(かたひじ)を立て、額に軽くお手を当て、小さい溜息をおつきになり、
「和田の叔父さまが、いい所だとおっしゃるのだもの。私は、このまま、眼をつぶってそのお家へ移って行っても、いいような気がする」
 とおっしゃってお顔を挙げて、かすかにお笑いになった。そのお顔は、少しやつれて、美しかった。
「そうね」
 と私も、お母さまの和田の叔父さまに対する信頼心の美しさに負けて、合槌(あいづち)を打ち、
「それでは、かず子も眼をつぶるわ」
 二人で声を立てて笑ったけれども、笑ったあとが、すごく淋しくなった。
 それから毎日、お家へ人夫が来て、引越しの荷ごしらえがはじまった。和田の叔父さまも、やって来られて、売り払うものは売り払うようにそれぞれ手配をして下さった。私は女中のお君と二人で、衣類の整理をしたり、がらくたを庭先で燃やしたりしていそがしい思いをしていたが、お母さまは、少しも整理のお手伝いも、お指図(さしず)もなさらず、毎日お部屋で、なんとなく、ぐずぐずしていらっしゃるのである。
「どうなさったの? 伊豆へ行きたくなくなったの?」
 と思い切って、少しきつくお訊(たず)ねしても、
「いいえ」
 とぼんやりしたお顔でお答えになるだけであった。
 十日ばかりして、整理が出来上った。私は、夕方お君と二人で、紙くずや藁(わら)を庭先で燃やしていると、お母さまも、お部屋から出ていらして、縁側にお立ちになって黙って私たちの焚火(たきび)を見ていらした。灰色みたいな寒い西風が吹いて、煙が低く地を這(は)っていて、私は、ふとお母さまの顔を見上げ、お母さまのお顔色が、いままで見たこともなかったくらいに悪いのにびっくりして、
「お母さま! お顔色がお悪いわ」
 と叫ぶと、お母さまは薄くお笑いになり、
「なんでもないの」
 とおっしゃって、そっとまたお部屋におはいりになった。
 その夜、お蒲団(ふとん)はもう荷造りをすましてしまったので、お君は二階の洋間のソファに、お母さまと私は、お母さまのお部屋に、お隣りからお借りした一組のお蒲団をひいて、二人一緒にやすんだ。
 お母さまは、おや? と思ったくらいに老(ふ)けた弱々しいお声で、
「かず子がいるから、かず子がいてくれるから、私は伊豆へ行くのですよ。かず子がいてくれるから」
 と意外な事をおっしゃった。
 私は、どきんとして、
「かず子がいなかったら?」
 と思わずたずねた。
 お母さまは、急にお泣きになって、
「死んだほうがよいのです。お父さまの亡くなったこの家で、お母さまも、死んでしまいたいのよ」
 と、とぎれとぎれにおっしゃって、いよいよはげしくお泣きになった。